今の自分を好きになれていないから

2020年が終わる。
早く時が過ぎて、持病の苦しさから開放されることへの羨望と、
時間を止めて喪失した時間を取り戻したい、という
相反する想いに苛まれる、年末。

気にしないよう蓋をしてきた人生の時間への思いは、年末や自分の誕生日といった「時」を意識する行事ではバチバチに思い出さされる。
早く終わってくれ、なにもかも、と身体に力を入れてベッドの上で標本の物真似でもするしかない時期。いやなのだ。




今年強く感じたことを率直に申す。
マジョリティーに身を置けさえすれば、なんとか割と楽しくいられる、だ。

健常者などのマジョリティーが、いわゆる「おうち時間(笑)」を過ごすことになると、いとも容易く仕事がお家でできるようになったり、眼鏡もお家で検査からフレーム選びまでできるようになったりなどなど、
"障害者のおうち時間"と"健常者のおうち時間"では、こんなにも世の中が変わってくれるのかと、クソみたいな気持ちになりま し た あ。


私は、コロナ流行以前から障害者としておうち時間を過ごしてきたのだが、
知り合いからご飯のお誘いがあって、いまは病気で療養中だと告げると、「病気が治ったら連絡してね」や、病名を知らないまま「じゃあご飯行けないね また誘うね」(それで終わり)
なんて言われたこともしばしばあった。
そういう私から離れた人も、今年オンライン飲み会をしたんだろうな……と思うと、自分の人望の無さで吐きそうになった。
オンライン飲み、(私はオンライン寝)一度したけどね。誘ってくれてありがとう。


つまり、マジョリティーへの嫉妬や羨ましさを持っている自分が、大変醜く感じた1年だった。
結局は、今の自分が自分は嫌いなんだ。好きになってあげられるほど強くないんだよ、わたしは。




「病気になって良かった」、と年単位あるいは数カ月規模の闘病をした方が言うのをよく耳にするが、私は、一生そんな言葉を言えるようになれる気がしません。

遠くで鳴く一羽の鳥に殺される

タイトルは昨日の私の発言です。


話は変わりまして、(今私が話したいことはタイトルの話じゃないので。)
働けなくなった次に待つ問題は、生 か 死 だと思う。

そもそも生き物、明日は死ぬか生きるかの確率100%なのだが。
例えば、働けないほど体が悪い、病気で死ぬか生きたままか。明日はどうか、
働けないほど就職先が無い、貯金が無い。自分は生保通らない、ご飯食べられなくなった。とか。

私は働けなくなったが、家と食料や水道などは確保されていて、この持病もお世話してやれば、そこそこ死なずにいられると考えていたが、
新型コロナの影響で、のこのこ生きていていられない可能性が出てきてしまった。



新型コロナウイルスの流行以前は、私の推定死亡リスク(独自の見解だよッ!)は、ある病気に比べて低いが、ある病気に比べでは高いという程だった。(病名出せないから読み手には理解できないよね…)
しかし、この流行によって私の死亡するリスクは上がった。免疫や呼吸器などに問題がある病人は、平等に死ぬリスクを底上げされた訳だ。ぴえー


ワクチン接種が始まっても、私の死亡リスクはほぼ変わらないと思う。
コロナ流行→私はコロナ重症化しやすい可能性、死亡リスク底上げ
ワクチン接種開始→ワクチン接種できるのは健康な人&病人でもワクチン接種できる人→私はワクチン接種できない、死亡リスクそのまま
こうじゃないかな……。ニュースでコロナ感染による今日の日本の死亡者数を知ると、胸がドキッとしちゃう。



「持病がある人に優先して新型コロナのワクチンを」と政府は言っている。
政府の専門家会議や検討会の記事録は公開されないものが多く、私がそれらを全て知った上で意見できないのは残念であるが、
持病がある人でワクチン打てない人、何十万人はいるんじゃないの?それは注意喚起しないんだ、と思った。
まぁ、政府はそう言うしかないか。ICD-11の病名数を考えると、個別対応は地方行政や地域医療の役割だ。一つ一つの発表に但し書きをビロビロに付けた文書を報道する訳ないし、日本はワクチン接種に少しでもネガティブな発言出来ないか、と解釈した。



自分が、みんなが言う「みんな」の中に入れなくて、図表の脚注の4番目の但し書きが当て嵌まる人間になってしまったので、私は、世の中生きていて腑に落ちないことだらけで、自分に関係ない場所にはみんながいる。

「みんな」に当て嵌まる人は、新型コロナの死亡リスクそこまで無いからGo toなんちゃら楽しんで、ワクチン接種できる選択あるんじゃん?全然違うなぁ、自分とは。僻んでるよ、
わはは



働いてるみんなぁ!
私が働けるようになったら、お仕事をください。最悪、仕事は無くてもいいので、おちんぎんをください。おちんぎんおちんぎん!

厭世的遠征

タイトルは言葉遊びです。

先日、久々の通院でした。私の中で通院は、食料やブランケットを持っていく「遠征」です。
道中、車移動の際の振動で吐きそうになるので、嫌いじゃない通院がこのせいで嫌いになりそうです。

この気持ち悪さを思い出すと、今も吐き気が湧き上がってきました。おろろ。脳さん、今はベッドで寝ているから安心していいのよ。そうよ、そうよ。



受診自体も久々だったのですが、外出自体が久々でした。
横断歩道で信号待ちしている集団の高校生をみて、家族以外の人間が生きていることを目視で確認しました。どこの高校の制服かもわからないけど、彼らの健康をひっそり祈りました。

病院に行く前に二級河川一級河川を横断します。堤防は思ったより小さくて頼りなく、川は前より横幅が小さくなったように感じました。
私が大きくなったから川が相対的に小さくなったのか、川がたいへん広いと誤認していたのか、何故なのでしょうか。


ここ一年程、ISSのライブ映像をアプリからよく見るのですが、慣れてくると地球も小さく感じてしまいます。
子供の頃は、金平糖も、ブランコも、小6のお兄さんも馬鹿のように大きかったです。

管が底に刺さった浴槽で

書きたいことがあっても、なんかわからんわ、となりがち。纏まらない浅い思考が高速で散り散り。
普段から文章読んでたら、ブログって得意になるのかな。あれ、いつも私は何してるんだっけ。
ねてる?ねてる。



いよいよ、自分が何して昨日生きてたのか、出来る事がかなり制限されている中で今日は何をして生きたらいいのか、分からなくなってきた。

いい歳して、こんな状況下でも画期的な生き方ができたらいいのに、と安直な願いを漠然と強く持っている。よく、働いてお金を稼いでニッコリしている将来の自分の姿を妄想する。そうなればいいな、って。
そうなるためには、この病気の有効な治療薬・治療法が見つからないと実現し難い訳で。この病気あるいは医学に関して、何か大きな転換が起こらないと、私は働くことも不可能なままだ。
それが起こりうる確率やその他諸々込みで、今後の人生のシュミレーションを計算してくれる機械があればいいのになぁ。第一に、母数が少なくデータがほぼない。

今日は一体何して生きたらいいんだろう。この生き方で合ってるのかな。
(リハビリしてるし、それ以外も色々工夫したり我慢したりで、雛鳥のように口を上に開けているだけじゃないよ……それでも超えられない治療の限界があるから、どうしたらいいんだろう。毎日不安トンネルの中だよ、って話しです。)



自分が精神的に成長したことは、時間が経てば病気は必ず完治する、なんて甘い目測を立て、人生の時間経過に依存しなくなったこと、である。
何もしなくても、時間が私の病気やそれ以外の問題点を解決してくれる、って最近まで心の底の瓶の中で思ってた。
例えば、これは幼い頃から思っていたことだが、30歳までには努力しなくても、歳を取ることで自然と字が綺麗に書けるようになる、とか。そういう類の思考。
これを含め、私は目測を見誤りがちなのである。



1日3回ごはんを食べても、栄養素が消化管を素通りしていくのを感じる。経験を身につけられないのなら、せめて栄養素は身についてほしい。決して痩せ型ではいないのだが、エネルギー摂取量と体重増加量の関係性が私は中々狂っていると思う。
細胞も生きようとして欲しい、私は生きるから

そらそら逸らす

変化がない人間は、今日は昨日と同じ日常であったことを語る必要性があると思い、私はこうやって文字を繋げて文章の形成を試みている。

特に今、書きたいこともあんまり無いかな。


人間らしさ、というものが最近わからないなぁ、とぼんやりぼちぼち考えている。

人間らしからぬ状態。人間を辞めた人は人間じゃないかな、あと、なんだろう。


大勢の人と同じように生活してた頃は、私は人間らしく生きていたと思うし、周囲にいる人は臭いほど人間らしかった。野菜の匂いがしていた。
今は、自分が人間ぽくないと思う。
自分が大きな集団に入れなかっただけで、こんなに疎外感や不安、やるせなさをずっと感じてしまう。これを感じられるのは、人間らしさなのかもしれないが。


こんなことを言うと、「少しの間でもそんなに苦労せず生きて来れたんなら、そんなの不幸じゃない」と私に苛立つ人が居るのも知っている、つもり、だ。
とりあえず、そういった不幸自慢大会は、自分と向き合えない私は他人に詳細を語ることが出来ないので、欠席でお願いしたい。

向き合えたとしても多くは語れないかな。これは、自身の経験や体験(戦争とか)を語りたがらない方々の気持ちに似ていると思う。



自分の人間らしかった部分の結晶が手から溢れていく。それが足の甲に落ちて弾かれ、それを拾おうとしたら手に持っているものがボタボタ落ちてしまう。
だから、このままの姿勢を保つ。
既に痛い手の指にぎゅっと力を入れて、手に神経を集中させながら楽な姿勢を試行する日々。しんどい思いをして溢れるスピードを減速できても、減っていくのには変わりはない。



まとまらなかったけど、今日は昨日と同じように過ごしただけでした、
というお話し。

いつかは消える皺

この段階で、既に自分のブログがきもちわるく感じてしまう。自分自身の、 きもちわるさ と向き合う機会なのかもしれない。



きもちわるい、で思い出したが、今日は部屋や家の中って気味悪いほど布だらけで、少しきもちわるいと思った。

部屋のカーテンは遮光カーテンで、布独特の柔らかさや植物っぽさが感じられないから、カーテンはましだ。カーテンきもちわるくない。
ベッドの布団、枕は、ほぼ外出困難寝たきりの私がいつもお世話になっているという感謝の気持ちがあって、嫌いと言ってはいけない気がする。そもそも、寝具は質量が大きいため布というより「布の製品」という感覚で、きもちわるくはない。


床に敷いてある布、家族分のバスタオルやハンドタオル、体温調節のために脱いで無造作に置かれた布、きもちわるい。
目隠し、防塵のために家具や電子機器に被せられた布、洗濯場のカゴに入った服、押入れに丁寧に積み重ねてあるよそ行きの服、きもちわるい。よそ行きの服、着られる機会なんてもうないであろうに。こんなに丁寧に保管してしまっているのも、きもちわるい。
トイレに入っても、冷たい便器とタンクの水、みんな大好きトイレットペーパーと布と布と布だ。
布が多すぎることがきもちわるい。

自分の服。過去の体勢で刻まれた皺を未来まで引きずっている服の皺、きもちわるい。それが視界に入らずに済むよう、布団を首まで引き上げて天井を見る。

利己的な食用貝

私は、ブログを書くことは好きではない。厳密に述べると、文字で自由に人間味を表現するのが好きではない。人の文章を読むのも正直好きではない。
敢えて嫌いだ、とは言わない。

年始にnoteを始めたが、noteは書き手が読み手を意識して書いた文章が多く、私自身もそれにひっぱられて指と脳が空回りを始めてしまった。2,3あった記事は非公開にし、更新を断念した。


私の人生、今後何か起こる予定も無い。文章を書くとしても、過去の懐古か過去と現在の比較と分析になってしまうことが予測できる。(自分自身に嫌気がさして、途中から淡々と雑学をお伝えするブログになることも予言しておこう。)

また、書いた文章を突然削除したり、内容をすべて書き換えることも多々出てくるだろう。更新を知ったら、なるべく早くに読まれることをおすすめする。



どうぞ終わる日がくるまでお付き合いください。
少しでも永遠を感じられるよう、IDは円周率にしました。